平忠度生誕の地 – 和歌山県


忠度生誕の地

忠度生誕の地

和歌山県新宮市熊野川町宮井の音川という地が平忠度の生誕の地だと伝えられています。

忠度生誕の地

忠度生誕の地

国道168号沿いに「薩摩守 平忠度 生誕の地」の看板があり、そのすぐ近く、少し石段を上がった所に石碑が建てられています。

忠度生誕の地

忠度生誕の地

横の石碑に刻まれた解説文。

平忠度誕生の地

薩摩守平忠度は、文武両道に優れた武将であったと言われるが、平家物語から忠度に関連する記述を抜粋してみると「」の章に、浜の女房(女官)の歌として
「雲井よりただもりきたる月なれば おぼろげにては いはじとそ思う」とある。

「忠度都落」の章によると、平氏一門と共に都落した彼は淀の川尻から京に引き返し、歌道の師、藤原俊成の門を叩いて遺詠を渡した後京を去っていった。
その歌「さゞ浪や志賀の都は荒れにしを 昔ながらの山桜かな」は、後に千載集に「故郷花」という題で詠み人知らずとして入れられている。

薩摩守最後」の章によると、薩摩守は「熊野そだち、早業の大力にておはしければ」とあるが、寿永3年2月7日一の谷の合戦に利なく敗走する平氏軍の中で忠度は武蔵国の住人岡部六弥太と組み合って六弥太を組み伏せ、その首を掻こうとした時、背後に殺到した六弥太の郎党が、忠度の右腕を切り落とした。もはやこれまでと「そこのき候らへ、十念唱へん」と組み敷いていた六弥太を投げ飛ばし、どっかとすわり十念を唱へ従容として最後をとげたが、彼の箙に次の一首が結ばれていたという。
「行き暮れて木のしたかげを宿とせば 花やこよいのあるじならまし」

相須の甲明神社に若宮として平忠度をお祀りしている。

平成十年三月   熊野川町教育委員会

正面の石碑の裏面に刻まれた解説文。

忠度生誕の地

忠度生誕の地

ここ音川の地は薩摩守平忠度生誕の地であると伝えられる。父は鳥羽上皇に仕え、上皇の熊野御幸のお供をし、又上皇が建立された三十三間堂の建設にも関わったという平忠盛は鳥羽上皇の御所に仕えていた熊野別当湛快の娘 浜の女房(女官)といわれ、忠盛と結ばれたのち熊野に帰り、音川の橋爪氏の館で忠度を生んだと伝えられるのがこの場所である。忠度は十八才迄熊野で過ごし、熊野参詣に来た兄の清盛に伴われ京都に上ったと伝えられる。

平成十年三月   熊野川町建立

平忠度の石碑は熊野川行政局の傍らにも建てられています。

元記事は「平忠度生誕の地:熊野の観光名所」。